浮橋−(現世とあの世との架け橋)
戦場を離れ己の屋敷にいて、一人酒を傾ける。
板の間でのんびりと。
こうしていることが多くなったと、ふと忠勝は思う。
床の間には愛用の蜻蛉切りが鎮座しひとときの休息を満喫していて。
何も考えることなく、開け放した濡れ縁の向こうに広がる庭を見ながら杯を傾けるなどそうできることではない。
夜風が心地よく、喧噪など皆無。
ただ葉が時折風に嬲られ、囁く声が聞こえるだけ。
こんな風情のあることを思いつく頭があるものだなぁと、また一口酒を含む。
「・・・今のうちのみよ。」
もっとも、こうして一人でいると稲がやってきては
「父上、また眉間にしわを寄せられて酒をお飲みですか?井伊殿達の所へにでも行かれて騒がれてきたらいかがです?」
と父親が一人で腐ってるのではないかと心配していくわけで。
ところが今夜は静かなものだった。
稲も留守であり、屋敷の者達も最低限しかいない。
星は出ているが、月は見えない。
そこへふらりと紛れ込んだ、気配。
「・・わざわざ天井裏へ回らずとも良かろう。」
声を投げれば部屋の隅に置いてある行燈の灯がゆらめき、その影から見知った顔が現れた。
「お前は何もかも忍びの技を使わんと気がすまんのか、半蔵。」
「癖だ、気にする事なかれ。」
「・・・そうやって普通の格好した者が何が悲しくて天井裏へ回ろうとするか、まったく。」
紛れ込んだのは半蔵であり、黒い袴と青鼠の小袖といった普段着だった。
勿論顔も隠れておらず、髪は適当に結っているだけ。
武器も持たず、ただ違うのはまくれた袖から覗く腕の防具くらいだろう(何を仕込んでいるかは知れないが)。
「では言い直そう。・・冗談だ。」
彼はまったく表情を変えず、至極まっとうにそう言ってのけた。
「・・ったく、もうよいわ!」
語尾を少し荒げてみせればおかしいのか、低く笑う声。
「登城からの帰り道で稲姫に会った。父上が腐っているからどうにかしてほしいとな。」
「む・・・、稲め、余計なことを。」
「最近いくさばから離れておるからな、主も忠勝に覇気がないと零された。」
「うむむ・・。拙者は政治云々に疎いゆえ登城してもすぐ戻るか鍛錬へ回る故・・。」
「・・・・戦無きはわが主の求める太平の世の微かなる兆し。忠勝は戦の果てに何を見る?」
半蔵は何時の間にやら瓶子ごと手にして口へと酒をいれていた(不意に来るので杯がいつも無いため)。
足を崩し、また一口。
「それは、太平の世が訪れた後のことか?」
「そうだ。」
「・・・・・。」
こういう時の半蔵は不思議な感じがした。
鋭い光を帯びた瞳は刀の刃が光る色にも似た色に見え麗鋭な目元で一層際だつし、何よりも顔に入った2本の傷跡。
戦場を駆け抜ける将たる気迫を否応なく知らしめているのだ。
しかし、面立ちは細く無骨な者ではない。
どこまでも見透かすような表情なのは、心理を読むことに長けた忍び故だからだろうか。
「・・・・・蜻蛉切りを手放すときであろうな。」
忠勝は杯を傾けた。
酒の味は分からない。
「半蔵はどうするのだ。」
「影は、何処にでも存在する。」
「光が当たれば四散してしまうだろうに。」
「四散したところにも影ができる。」
「お前は本当に自分が影と思っているのか?・・こうして光のあるところにもいるではないか。」
忠勝はふと思いついたように尋ねれば、半蔵は微かに驚いた顔をした。
そして笑む。
「今は、服部石見守正成。徳川の譜代であり石を授けられている一武将だ。羽織袴に髪を結い、登城もする。」
それでも答えが腑に落ちない忠勝は眉を顰める。
しかし目の前で半蔵の姿が掻き消えたと思えば、忠勝は天井を仰いでいた。
はたと思う前に半蔵が視界に入る。
頭巾こそかぶってはいないが口元を布で隠し、くつろげた小袖からは鎖帷子が覗いている。
腹の上にのった半蔵は、重さなど感じさせない。
乗っているはずなのに、気配がなかった。
捲れた袴の裾からも、防具が鈍い光を放つ。
「・・・服部半蔵・・・・。」
「そう・・・拙者が伊賀者頭領、服部半蔵。光あるところにある、影の化身なり。」
「言い切るか・・・。」
「拙者の鎖鎌はあらゆる者を切り裂こうぞ。」
いったい何処に隠していたというのか。
半蔵はいつもの武器を手にしていた。
殺気はない、とはいえ忠勝の首にそれは宛われているのは良い気分ではない。
「・・・影は、太平の世が訪れたらどうするのだ?」
「影は戦乱という暗闇と共に現れ、消えゆこう。」
「光あれば影ありと言うたではないか。」
「不要なれば、消えよう。」
「いいのかそれで。」
「今すぐ消えるわけではない。・・・不要となれる時代が来るなら、それも一興。」
「では不要となる時代など来ないと申すか?」
忠勝は起きあがり、じっと忍びの目を見つめた。
半蔵は、目元のみでうっすら笑う。
「何時の世も、それを維持するために動く者がいる。則ち、光を守るために影が存在する。」
「・・・・・。」
半蔵はすでに元居たところに座り直していた。
小袖のあわせもきっちりと直され、顔も隠していなければ髪もゆるく結んでいるだけ。
すこし、静かなまま時間が過ぎる。
「・・・武士の世は、終わりかけている。」
ポツリと忠勝は零す。
「その先に、拙者が生きられる世界はあるのだろうか。」
「・・・・討ち死にを、望むか?」
半蔵の言葉に思わず顔を上げれば、変わらず無表情な面立ちがあった。
(行燈の光を帯びている片頬は艶めかしく橙を帯びていて、影の方は嫌に青白い顔くみえる顔だった)
その顔が、また笑みを刻む。
「望むなら、言うがいい。」
「お前にか?なぜ。」
「・・・拙者は、浮橋。影に浮かぶ浮橋だからだ。」
一方的に命を狩る者は静かにそう言うと、「酒が切れたぞ」と言って忠勝に追加を急かす。
もちろん、酒を取りに行って戻れば半蔵の姿はなかった。
「・・・・浮橋とはよく言うたものだ。」
武士の心を持てといつもあやつに言う己は間違っていない。
忠勝は強く思い、また板の間に座ると一人で庭を眺めながら酒を傾けることにした。